TKU’s blog

思考は究極の娯楽。

焼肉チェーン店で哲学の扉を叩いた話。

こんにちは。

高山裕輝というものです。

今回はシリーズものです。

今日は前編編。哲学の時間だ!!

それでは、どうぞー!

 

 

闇市に行ったんよ。

今日、僕は家族と焼肉を食べに行った。

f:id:TKU:20180829231235j:plain

焼肉店 闇市

 

実をいうと、僕はあまり焼肉の教養が高くない。

原因は明確だ。

末っ子である僕は、幼いころから皿の上にただ載せられていくお肉を無思考に口に運ぶことが焼肉店での役割だった。

 

ある程度大人に成長してきて、意識してお肉を食べようと思った。

だが、焼肉店で色んな焼肉を注文した際、お店は一皿に2,3種類のお肉を載せて運んでくる。

もちろん初めにどれがどの肉なのかは説明聞くんだけど、

結局後半は何の肉か理解せぬまま食べてしまっている。

 

f:id:TKU:20180829231444j:plain

こんなやつだ。

わかるだろう。

これが僕の「焼肉アーツ」の育みを阻害してきたのだ。

 

 

僕は未だに、

頭悪そうに『お肉おいしぃ~』としか喜びの声を上げられない。

 

 

 

焼肉から哲学の扉を開ける

 

ここから思ったことがある。

人は言葉を知らないとバカになる。

 

逆か。

人は言葉を知っているから”こそ”、ここまで賢くいられるのだ、と

そう思った。

 

 

 

もし僕が6歳児で「お肉」という言葉を知らず、

目の前のモノは「食べ物」だとしか認識していなかったら、

僕はお肉と果物のおいしさを分かっていないと思う。

 

 

 

もし僕が0歳児で「食べ物」という言葉をしらず、

目の前のモノは「モノ」としか認識していなかったら、

僕はお肉を、口に入れるものなのか誰かに投げつけるものなのか分かっていないと思う。

 

 

 

 

何となく、感覚的にわかってきた。

言葉は周囲の物事に名を与えている。

 

 

 

そして名を与えることで、

僕たちはその1つ1つのモノを区別することができるようになる。

 

 

そして、区別できるということは分けるということであり、

分けることで2つのモノABを比べることができる

 

これが、いわゆる ”分かる” というヤツなんだろう。

全てのモノ同士の共通点や関係性がはっきりし、頭の中で現実を整理できるようになる。

 

 

よく芸術的というか、カオスな絵画を見た時、何とも言えない気分になる。

これは、その絵画で表されているモノが自分の頭の中で当てはまる言葉がなく

、分からない(分けられない)ということなんだろう。

 

 

 

 

名を与えることのメリットはもう1つある。

それは記憶という能力があることで、

脳内で別々のモノをAとBとして登場させ両者を比較できるようになる、ということだ。

これが、いわゆる ”思考する" というヤツだ。

 

 

人間がどうして知的な生物になれたのか、わかったような気がした。

ずばりその理由は、人間は言葉を持つからだ。

 

 

 

言葉を持つことで、人間はただその場に佇んでいるだけで、

どんどん世の中のことを理解し、仕分けていくことができるようになった。

これが知性の源となったのだろう。

 

 

 

 

 

 焼肉店を飛び出して、哲学の階段を上がる

もう一歩進んでみよう。

 

言葉と似たようなモノに言語というものがある。

僕の感覚では、言語の方が何か上位概念にいそう。

ていうか、いる。

 

 

 

具体的な言語と言えば、日本語・英語・韓国語…と浮かんでくる。

この例えからも言語言葉の関係は、言語の中に言葉が包含されていると見て良いだろう。

 

 

では言語は、言葉の持つ「名を与える」能力に加えて、どんな特徴があるのだろうか。

 

 

 

それは1つのルールで名を与える方法を統一するということではないか。

 

 

 

例えば、

高山国では高山語というものを使っており、”いわゆるお肉”のことを「YASAI」と名付けているとしよう。

 

高山国の人と日本国の人がいわゆるお肉を目にする。

2人はこれを指さして、

日本国人:『ONIKU!!』

高山国人:『YASAI!!

と叫ぶ。

 

『は? 野菜? これはお肉だろうが!!』と日本国の人はきっと思うに違いない。

これじゃあ2人の意志が疎通するのはほぼ不可能だろう。

できたとしても、かなりの年月がかかると思う。

『なるほど、こっちでいう「ONIKU」がそっちでいう「YASAI」なのね』と全て確認しないとダメだからだ。

 

 

 

だから言語は、その名前の付け方(言葉に関するルールを統一する。

日本語というルールに則ると、これは「お肉」という名を持ちますよと。

英語というルールに則ると、これは「 meat 」という名を持ちますよと。

 

 

 

 

もはや焼肉の話どこいった?

なるほどなるほど。言語も理解できた。

 

じゃあそもそも言語の目的は?

どうしてルールを定める必要があるの?

 

 

それは、人間が1人で生きていく生き物ではないからだろう。

誰かと支え合って生きる必要がある。

 

 

 

そのためにはお互いのことを理解し、意思疎通できるようになる必要があったのだ。

言語を持つことで、私とあなたの間で意思疎通ができるようになったということだ。

 

 

 

1人だけだったら言葉だけでもよかったのかもしれない。

でも僕らは2人以上であるからこそ言語というものを持ったんだろう。

 

何かエモい。