言語を作った人の気持ちがわかる話。
こんにちは。
高山裕輝というものです。
ちょっとブログのデザインをいじってみました。
一通り調べて試してみたら、カオスになったので、テンプレから選んできました。
恐らく近日中にまたデザインが変わるでしょう。
前回、言葉と言語について、焼肉を手掛かりに哲学してみました。
(まだ見てない人は是非立ち寄ってみてください)
今日はその続きです。
どうぞ!
あの後思ったこと。
昨日のブログを投稿した後に思ったことがある。
言語って名づけのルールだけなんかな
、と。
「何かを口に運んで、もぐもぐして飲み込む」という動作を『食べる』と名付けたり、
「いわゆるお肉」のことを『お肉』と名付けたり、
その名づけかたを統一したものが言語であることは間違いないと思う。
ただ、それだけなんだろうか。
そうしたら、文章というものはいらないはずだ。
例えば、「お肉を食べる」という行為を考えてみる。
「私がお肉を食べる:現在系」という意味を『あ』と名付ける。
「私がお肉を食べた:過去形」という意味を『い』と名付ける。
「私がお肉を(これから)食べる:未来系」を『う』と名付ける。
もっと言うなら、
「私が牛肉を食べる」とき、それを『か』と名付け、
「私が豚肉を食べる」とき、それを『き』と名付ける。
もしそうした、どうなるだろう。
これを繰り返して、神羅万象、ありとあらゆるものに名をつけてしまえば、どうなるだろう。
名詞だけで意思疎通は可能だ。
だが、もう明らかなように。こんなことは不可能だ。
そもそも覚えきれないし、組み合わせは実質無限大にある。
だから、文法なるものが生まれたのだ。
一定の決まりに則って言葉を配置することで、とある意味が表現される、
それが文法だ。
言語は名付け方のルールと文法のルールを統一したもの
だったのだ。
いやはや、人間は非常に素晴らしいツールを開発したものだ。
だが、どちらにせよ、お互いに意思疎通するために言語が生まれたという本質は同じようだ。
(ココ重要。)
本題:共通言語は必要なのか。
はい。
こうして、僕の頭がアップデートされたところで、本題に入る。
これまでの哲学には全て意味があった。
この哲学的問い、そして前回のブログそれらの布石が今繋がるのだ…!!!
それらは全て、
コミュニティ毎に
共通の言語を作り出す必要があるのかどうか
という僕の疑問から生まれたものだったのだ。
先日、僕の所属するAIESEC阪大(通称:OS)で、
後期の活動計画を皆で承認する、
『総会』と呼ばれる会があった。
後期の活動計画の事を、アイセックでは『プラン』と呼んでいる。
だがこのプラン、
僕はもともとメンバーだったのでわかる。
見る側にとって、プランは本当に見づらくて仕方がない。
KGIだとかKSFだとかKPIだとか結果KPIだとかStrategyだとか、
何となくしか分からない言葉がよく出てくる上に、
どのようにそれらが導出されたのかなど、色々と見えづらい。
もっと事態は最悪だ。
各人にとって、一つひとつの言葉が何を意味するのかが微妙にちがっている…
だが、
執筆者からしても、プランの原型の作成者以外の人は、
1つ1つの言葉が何を意味しているのか実はあんまり理解していない人は多い。
ある意味これは、フレームワークに使われている、といえる。
プランの原型を作りだした人の思考のフレームワークに使われている。
この問題の根本原因を僕は、こう思った。
これは組織で共通言語がないからなんだろうなあ
と。
そうして、言語というものを見直すきっかけが生まれたのであった。
今、この本題に終止符を打つ!
一通り整理できた今ならわかる。
共通言語は必要だ。
それもコミュニティ毎に必用になってくる。
だって、言語というのはお互いに意思疎通するためにあるのだから。
日本人というコミュニティには日本語という言語があるが、
それとは別で、OSにはOS語のような言語を生み出さなければならない。
そのOS語は日本語をベースとして作られるのかもしれないが、
日本語とは異なる言語である。
例えば日本語でいう「問題」 と OS語でいう「問題」は意味するものが違うし、
例えば日本語でいう「課題」 と OS語でいう「課題」も意味していることは違うんだ。
更に言うと、文法も違う。
日本語という言語では、主語や目的語の省略があるかもしれないが、
例えばOS語では、それが許されない。
主語や目的語が抜けていると、何を意味しているのかが意思疎通しない。
…そんなようなOS言語を作りださなければならないんだ。
だって、そうしないと意思が疎通しないから。
思ったよりもずっと、共通言語を作り出すことは大切だった。