TKU’s blog

思考は究極の娯楽。

たまに苦しむあの問の話。

こんにちは。

高山裕輝というものです。

 

もう感づかれているかもしれないですが、

今、連続記事投稿のチャレンジをしています。

 

とりあえず、1週間は少なくとも毎日投稿しきる。

それが短期目標です。

 

 

さて、前回までは思想に関するお話でしたが、

今日は僕が春~夏の時期に学んだ気づきをシェアしたいなと思っています。

どうぞー!

 

 

 

とある問いがありましたとさ。

 

最近あなたは、何を学んだか。

 

唐突にこんなことを尋ねられたら、僕は一瞬ドキっとする。

ひとまず時間稼ぎに『ほぉ…、学んだことねぇ…』と、まるで余裕だと言わんばかりの雰囲気を醸し出し、焦りを取り繕う。

 

 

だが一方で、

頭の中ではもう1人の自分が、あちらこちらと記憶のタンスをあわただしく引っ張り回している。

その様子は、「締め切り間近の漫画家とアシスタント」のようだ。

 

 

あなたなら何と答えるか。

 

 

『最近、○○という本を読んだんだけども、そこには△△とあってね、確かになと思ったんだ。』

 

『この前、□□先輩と飲みに行ったんだけど、その時、~~な話を聞いたんが面白かった。』

 

 

 

この問いを理解してみる

最近あなたは、何を学んだか。

 

この問いはシンプルだが、非常に核心を突いた問いかけだと思う。

ここには2つの問いかけがある。

 

 

 1つ目。

最近『学ぶ』という行為をできているか?

これは、純粋に学ぶということにどれだけ時間と意識を向けられたか、という面で自分を顧みることができる。

 

 

 

 そして2つ目。

『学ぶ』とは何か。

   これが抜けている人がいるかもしれない。

   僕も、なんだか盲目的に1つ目の問いかけばかり気にしていて、

   『学ぶ』ということが何なのか考えられていなかった。

 

 

学ぶとは、学びとは

ということで、考えてみよう。

「学ぶ」の前に、「学ぶ」ことで得られる「学び」ってどんなものなのか考えてみる。

 

僕が一番「これは学びを使えているなぁ」と思う瞬間は、

議論や意見交換をしている時に、無意識に自分の考えが浮かんでくる、あのときだ。

あのとき僕は、自分の持ちうる学びを総動員して持論を主張してるっぽい。

 

 

逆に、そういった感覚が無い時は、つまるところ「学び」がないから、

一生懸命に知っている情報を基に、思考に集中していると思う。

 

 

「学び」は自由自在に応用できる知恵のことだ。知識とは違う。

つまり、経験の伴なった知こそ「学び」だと思う。

 

 

知識や知恵については、もっとニュアンスや状態に分けて、

色んな呼び方があるかもしれないが、そんなことは今はどうでもいい。

 

ここでは「あらゆることに応用ができる」ものを知恵とし、

「同じことにしか当てはめられない」ものを知識とする。

 

スループットから学びは生まれ、アウトプットで磨かれる

知識を知恵に変える為に必要なのは、経験や実践の試行だ。

これがいわゆる”スループット”と呼ばれるものだ。

そして知識を仕度することは”インプット”と呼ぶ。

 

この経験・実践の試行というのは、

過去の経験値を持ち出して、色んな状況に当てはめることをいう。

日本語としては、よく”咀嚼する”といわれる工程だ。

 

 

スループットができるとアウトプット(実際の応用)の質が上がる。

質の良いアウトプットができると、それがまた経験値となり、他のインプットや学びたちを巻き込んで、さらにスループット(咀嚼)することができるようになる。

 

これが学びの好循環というやつだ。

 

 

学びのハッピーセット

 

最近あなたは、何を学んだか。

 

 

ここで再び冒頭の問いに戻ると、この問いの本質の重みがより感じられる。

それに対して、冒頭の回答をもう一度、見てみる。

 

 

『最近、○○という本を読んだんだけども、そこには△△とあってね、たしかになと思ったんだ。』

『この前、□□先輩と飲みに行ったんだけど、その時、~~な話を聞いたんが、面白かった。』

 

 

そう、

これらは全てインプットした話でしかない。

 

学びは『インプットとスループットとアウトプットの繰り返しから生まれる知恵』だとは皆知っているのに、

学ぶという行為には、インプットの要素しか入っていないことが結構ある

僕はそうだった。

 

 

そんな過去の僕に、またアドバイスを送ろう。

 

それは、

インプットのルーティーンの中に、

スループットとアウトプットを入れてしまえ。

というものだ。

 

つまり、

アウトプットするまでの行為を1インプットとしてカウントする。

(もはやインプットという呼び方自体がおかしい笑)

(正しくは1インプットという行為を1学びという行為まで変えよう、ということ。)

 

 

例えば、「本を読む」というのは、学ぶという行為だと誤解しがちだ。

しかし、いわゆる「本を読む」という行為だけなら、それは1インプットでしかない。

 

そこで、

本を読むという行為が指す行動は、

 

「本の内容を自分の言葉で表現して(スループット)、

 応用できそうな場面と応用の仕方を発信すること」

 

だと思い込む。

とにかく思い込む。

 

 

そうすることで、

『学ぼう』という思いで本を手に取った時に、

行動がインプットでとどまることなく、そのままスループットとアウトプットまで行うことが自分の中で当たり前化してくる。

 

自分が得られる学びの量は各段に増やすための、小さな工夫。

 

これを、学習パッケージの拡大と名付けることにしました。

 

使い方としては、

 

『君の学習パッケージを教えて?』

『インプットまでで学習パッケージ終わってない?』

 

といった感じです。